躁うつ病で失職した男性が5か月後に社会復帰!

お金・仕事

(川西さま(仮名)男性からの体験談)

 

私が幼少の頃、私たち家族は関西に住んでいました。父は家にいないことが多く、遊んでもらった記憶もほとんどありません。ギャンブル三昧だった父は多額の借金を作り、私が小学校2年生のときに蒸発してしまいました。

 

借金の連帯保証人になっていた母のところに、借金取りが連日やって来るようになり、本当に酷い状況になりました。そして母は私と弟を連れ、母の実家のある北関東へ戻りました。

 

母子家庭となっても、母は私と2才年下の弟を、必死に育ててくれました。私たち家族は、四畳半ひと間で、一個のキャベツを分け合って食べるような暮らしをしていました。

 

母は病院の調理師として働きながら、その後、朝早くから勉強をして、看護師の資格を取るくらいの努力家でした。私は、そんな母を悲しませるようなことだけは、絶対にしたくありませんでした。

 

クラスで母子家庭だったのは、私ひとりだけです。当時はまだ、母子家庭を冷たい目で見る時代でした。そんな世間に対して、私は「いつか見返してやりたい」と思うようになりました。母に苦労をかけた父を、私は内心、ものすごく恨んでいました。そういった心がある場合、非行に走るか、自分の内に秘めてしまうか、そのどちらかでしょう。

 

私の場合は、内に秘めて我慢するタイプでした。我慢して、いつの間にか、恨んでいることすら心から消し去っていました。

 

普通、男兄弟であれば、けんかのひとつもするでしょう。なのに私は、弟と一度もけんかしたことがないくらい、感情を内に秘める傾向があったのです。

 

後で伝え聞いた話では、父は失踪して6年後に、九州の実家で亡くなったそうです。

 

ガリガリで、骨と皮だけになっていたと聞かされました。実は、亡くなる1週間前に、当時私たちが住んでいたアパートに、父がやって来ていました。私は、ドアの向こうに父がいると、気配で分かっていたのです。しかし、父は立ち去ってしまい、結局会えず終いでした。

 

私が成人した後、母はお惣菜の店を始めました。その頃、母は再婚したのですが、私は「自分には関係が無いから、好きにすればいい。この年になってお父さんとは呼べないよ」と言いました。

 

私は放射線技師の仕事に就き、レントゲン写真を撮影したり、超音波検査を行うことを主な業務としていました。とにかく出世を目指して、病院の廊下を歩いていても、笑顔ひとつ出しません。それがあるべき姿であり、格好いいと思っていました。まさに、プライドの塊だったのです。

 

母が骨折して、私が勤めている病院に入院した時も、ほとんど顔を出しませんでした。再婚相手の父は、見舞いに来てくれていましたが、私は足が向かなかったのです。

放射線技師としては、医師に負けたくないという思いから学会や勉強会に足を運び、本を買い漁って、勉強に勉強を重ねていました。36才の時、母からの「お前さえ結婚してくれればね」というひと言に動かされ、結婚してはみたものの、全然だめでした。

 

子どもも二人でき、産まれてすぐは可愛く思えたのですが、だんだん可愛く思えなくなりました。愛し方も分からなくなってしまっていました。家庭に安らぎがあるなど、思ったこともありません。

 

自分の居場所さえ分からなかったので、さらに出世を目指しました。極端かも知れませんが、「日本一の放射線技師になってやる!」と思っていたのです。とにかく、「認めて欲しい」という気持ちが強く、依頼されたら、何でも仕事を引き受けていました。

 

中間管理職で、部下が十数人いた私は、実質上部署を任されていました。それに加え、医療事故防止の対策を講じる、責任者にもなっていたのです。デスクの壁にメモをずらっと貼り、分刻みのスケジュールで全く休む間もなく仕事を続けていました。厚労省に独自で提言したりもしました。

 

自分としては、特に異常だとは思っていませんでしたが、その頃から躁状態になっていたようです。毎日、夜中の一時二時まで仕事をしていたある日、頭の中で何かが「プツン」と切れた感じが分かり、躁状態はさらに酷くなっていきました。

 

上司に対して「お前のせいで病院がよくならない」と言い放ったり、部下に向かって酷い暴言を吐く行為が、だんだん度を越していったのです。挙句の果てには心療内科に担ぎ込まれ、躁うつ病の診断を受けました。

 

約3ヵ月の休職後、薬を飲んで躁の状態は落ち着きました。そして職場に復帰したのですが、部下たちの私に対する態度は、以前とは全く変わってしまいました。完全に無視され、まるで犯罪者を見るような目で見られたのです。

 

皆が川西さん、川西さんと言ってくれていたのに、私が近寄っていくと、人がスーッといなくなりました。仕事の中身も、多くの人に関わらないような雑用に回されました。雑用を1週間ほど続けていたある日、病院の副院長から呼び出され、「私もかばい切れない」と言われました。

 

「皆が一緒に仕事をしたくないと言っている」のだそうです。この副院長を私は一番信頼していたので、その時に、もう現実が分かりました。一番信用していた部下に、「もうだめなのかねぇ。俺、そんなに酷いことしたのかなぁ?」と聞いてみました。すると、怒り混じりで「川西さん、何言ってるんですか」と言われ、とどめを刺されたのです。

 

結局、自主退職となった私は、その後、極度のうつ状態になりました。

 

本当に起き上がれない状態が、3ヵ月続きました。今思えば、出世が人生の全てではないと分かるのですが、当時は違ったのです。仕事でも認められ、一戸建ての家を買い、高級車にも乗っていて、順風満帆と思っていただけに、人生終わったと思いました。

 

仕事を失ったこともそうですが、皆から手のひらを返すようにされたのが、すごくショックでした。横になりながら、あれはきっと嘘だ、「俺たちが悪かったんです」と言ってくるに違いない、そう思ったこともありました。

 

妻と、7才と3才の子どもがいるのに、仕事が無く、どうしたらいいか分かりませんでした。落ち込んでべたっとなりながら、時計の秒針を見ていました。一秒一秒、時が刻まれるのを見ていたのですが、針の進みは、とても遅く感じられるのです。

 

「自分はだめだ」と自分を責めながら、ものすごく長い一日を過ごしていました。うつ伏せになりながら、畳の編み目を一本一本数えて過ごした日もありました。本当に絶望の状態でしたが、どうすることもできませんでした。

 

半年くらい経った時、食事も少し食べられるようになって、外出できるようになりました。自宅から車で5分くらいのところに、沼があって自然豊かな公園があります。そこに家族で行った時のことです。

 

沼のほとりに松の木があるのですが、その松の枝に、自分が首を吊っている映像が延々と映し出されるのです。辛くて辛くて仕方がありませんでした。

 

その後、田んぼのあぜ道を歩きながら、前を歩く子どもたちの姿を見て、たまらなく不安になりました。この子たちが大人になる姿を見ることはなく、私はこの世を去ってしまうのではないか?もし、私が自殺したら、その事実を背負って子どもたちは生きていくのか?

 

母だって、後追い自殺するかも知れない。そう思い悩んでも、やはりどうしていいか分かりません。躁うつ病について、インターネットなどでも色々調べてみました。この病気にかかった人に、共通して出てくるのが、「社会的に信用を完全に失って」というフレーズです。

 

精神がおかしいというレッテルを貼られたが最後、社会から抹殺されてしまうのが、恐ろしいところなのです。私が躁うつ病を発症した頃、だんだん精神科の予約が取りづらくなっているのを感じました。世の中で、心の病が急激に増え始めた時期だったのでしょう。

 

そんな状態が1年ほど続いたある日、妻が偶然、佐藤康行学長の元でカウンセラーをされている人が書いた本を見つけてきました。

 

私は、様々な療法についての本を、何十冊も読んできましたが、どれも嘘っぽいと思っていました。実際にうつ状態になった自分からすれば「そんなんじゃ治らない」というのが、私の感想だったのです。

 

しかし、佐藤康行さんの元では、本当の自分である「真我」を自覚することで、心の病が解決していくというのです。

 

今まで聞いたことのない治療法ではありましたが、この本からは、他の本とは違う何かを感じました。妻に受診してみたいと相談したところ、ダメもとで受診してみればと言ってくれました。

 

1週間後、立つのもやっとの状態で、東京の施設に行きました。これでもし何も変わらなければ、帰りはどこかに飛び込んで、死のうという気持ちでした。早朝から受講して、午前中はほとんど突っ伏している状態で、指示されたワークもできないような状態でした。

 

しかし時間が経つにつれ、どうにか自分の心を掘っていけるようになりました。

 

カウンセラーが、母の愛になり変わり、会話をしていたある瞬間に、突き上げるような感情が湧き出てきました。バーッと血液が全体に廻って、脳が活発になったようでした。初めは、何が起きたのか分かりませんでした。

 

ほどなく、自分から出てきた、愛であり、感謝そのものの体感こそが、真我なのだと分かりました。驚いたことに、家に帰る時には、うつは吹き飛び、やる気が漲って体が軽くなっていました。

 

「やるぞー!」といった気持ちになっていたのです。

 

なんとこの日から、食事も普通に摂れるようになりました。帰宅した私は、妻にいきなり「治ったよ! すごいよ! 素晴らしい!」と興奮して言いました。その勢いに妻は、また私が躁を発症したのではないかと疑ったぐらいでした。

 

次の日の朝、私は母にうつが治ったことを報告しに、車を走らせました。すると、外の景色が今までとは全然違って、パーッと明るく見えたのです。

 

佐藤康行さんの開発したメソッドは、何かの処置をされたから大丈夫、ということではないと感じました。自分の内側から湧いてきたエネルギーで、景色の見え方までも変わったのです。

 

母に会った私は、「心配かけたけど、良くなったよ」と伝えました。それに真我を開いて気付いた母への感謝も、そのまま伝えることができました。良くなった私を見て、母はすごく喜んでくれました。

 

私は、何でもいいから仕事をさせて欲しいと言いました。とりあえず、ごぼうの皮むきや、片づけから始めることになったのですが、厨房に入った途端、店内が100倍くらい輝いて見えて、とても驚きました。まるで光のなかにいるようでした。

 

以前の私は、お総菜のお店や仕事のことを、バカにしていました。それよりも、私は放射線技師で、管理職で、出世して……といったことに、価値を置いていたのです。

 

実際に、うどんとだしと、七味唐辛子をパックに詰める作業などをやってみて、この仕事は本当に奥が深いことに気付かされました。お客様が来れば、本当に心からの「ありがとうございます」が出てきます。足の悪いおじいちゃんが来れば、お買い上げいただいた食材を、私が車まで持って行きました。そして、精一杯の感謝をこめて「ありがとうございました」を伝えるのです。

 

その後、何日か経ち、またそのおじいちゃんが来てくれたことに、本当に感激しました。

 

1ヵ月後、私は再び受講しました。すると、自分の子どもが、本当に愛おしいと思えるようになったのです。あれほど愛せないし、愛し方も分からなかったのが嘘のようです。公園で遊んでいる子どもの姿を見ているだけで、とても幸せな気持ちになりました。

 

親が子どもを愛するのは当たり前と思われるかも知れませんが、一般的なイメージの親子愛とは違う次元で、子どもを愛している自分がいたのです。

 

そしてその5ヵ月後に、さらに驚くことが起こりました。

 

なんと、勤めていた病院の系列である別のクリニックから、放射線技師として復帰しないかという話が舞い込んだのです。しかしクリニックの院長は、かねてからの知り合いで、反りが合わない人でした。いつもキリキリしていて、何か言っただけで、場の雰囲気をピンと張りつめさせるような人なのです。

 

しかし復帰後、私は院長に対する言動を変えて、接することにしました。

 

手術のテクニックなど、院長の本当にいいところを認め、心からの笑顔で伝えるようにしたのです。すると意外なことに、変わってきたのは私の気持ちでした。あれだけ嫌いだったはずが、こんなにいい先生はいないと思えてきたのです。

 

その後、その院長は、私のことをすごく好きになってくれました。それからしばらくして、佐藤康行メソッドのカウンセラーと会っていた時のことです。

 

私はこれまで、自分の父との関係を見つめ直したことがないことに気がつきました。それが嫌で避けてきたわけではありません。本当に忘れていたというか、自分のなかに父という存在が無かったのです。

 

カウンセラーと相談しながらワークを進めてみたら、今まで内に秘めていた心のゴミが、大量にあることが分かりました。見事なまでに、あらゆる恨みや怒りを抱え込んでいたのです。

 

「お前のせいで、俺はこんなに辛い想いをしたんだ!」「お前が俺を、あんな目に遭わせたんだ!」と、もう本当にマイナスの感情だらけで、ワークを進めるのも大変でした。しかしずっと続けているうちに、私はあることに気が付きました。

 

「父も本当は辛かったのだ」と。父が産まれてすぐに、祖父が事故で亡くなり、父も父親の愛を知らずに育ったのでした。

 

父自身も、20代前半でトラブルに巻き込まれ、そのことでギャンブルにはまってしまい、本当に辛い人生を送っていたのです。それまで、父の気持ちなど考えたこともなかったのは、私の方でした。父の辛さを分かってあげられなかったことが、本当に申し訳なくて、涙が溢れました。

 

父が亡くなる1週間前、私たちが住むアパートにやってきたのは、私たちに会いたかったからなのです。自分の死期を悟り、私たちに一目会おうと、アパートまでやってきてくれたのです。

 

しかし、会わせる顔が無いと思ったのでしょう、結局ドアを開けることなく、父は立ち去っていったのでした。そのことが、私にははっきりと分かったのです。

 

その後、カウンセラーと深いやりとりをするにつれ、私はさらに、父の偉大な愛を知ることになりました。父は、私に苦しい体験を与えてくれたことで、人間にとって本当に大切な、色々なことを教えてくれていたのです。父のお蔭で、多くの苦しむ人の気持ちも、分かるようになりました。

 

家族や職場の仲間を、大切にするようになれました。

 

今の成長した自分があるのは、父が与えてくれた人生のお蔭なのです。それは、宇宙そのものと言えるくらい、大きな父の愛でした。この日を境に、私は何気ない日常の場面で、父の存在を感じるようになりました。

 

例えば、車を運転していて自分の手を見たときに、「あっ、父が応援してくれているんだな」と思えるんです。自分の内面をふと見ると、父とひとつなんだと、いつも感じられます。恨みを超えて、存在すら抹殺していた父だったのに、それが本当に「ありがとう」という気持ちに変わりました。

 

仕事に対する捉え方も全く変わってしまい、その頃から、誰かと張り合ったり、出世してやろうという気が無くなっていきました。今は、院長を含め、スタッフ皆が和気あいあいで、患者さんとも冗談を言いあったりしています。医療従事者と患者さんの壁を越えて、本当に仲がいいのです。

 

それからも私は、「ありがとうございます」をどう周囲に伝えるかを追究して、職場で実行していきました。すると、「ありがとうございます」がいつも飛び交う、素晴らしいクリニックになっていきました。

 

この頃になると、自分が躁うつ病になった理由も分かるようになりました。

 

私は、父に捨てられたという絶望感から、自分の感情と闘いながら心に蓋をして、いい子を演じ続けていたのです。心の中では、絶対に世間を見返してやるという気持ちを常に持っていました。人から頼まれれば本当になんでもやり、なんとか認めてもらいたい、なんとかのし上がってやろうという気持ちでいくうちに、バーンと弾けてしまったようなのです。

 

私は、躁状態になってから、周囲に本当にひどいことをして迷惑をかけました。いつ自ら命を絶ってもおかしくないくらい、追い込まれました。そして、うつが綺麗に治った後も、前の職場に戻ることは叶いませんでした。

 

しかし、今になって思えば、それが良かったのです。

 

もし、すぐに赦されて、元の職場に戻っていたら、本当の自分という愛の真実をここまで求めなかったでしょうし、父の想いにも気がつくことはありませんでした。それに、私の体験を、世の中に伝えようとは思わなかったはずです。

 

それこそ、大いなる意志が、私のことを愛の道から後戻りすることがないように、道を創ってくれたとしか思えないのです。私自身がコテンパンに、社会的に抹殺されるという経験がなければ、今の自分はありません。

 

この経験は、いい体験をした、などという言葉では収まらないくらい、私にとって揺るぎない「財産」なのです。

 

私が子どもの頃は、クラスで母子家庭なのは私だけでした。しかし現在では、学校によってはクラスの半分ほどが母子家庭になっていると聞きます。

 

もちろん、離婚がすべて悪いという話ではないのですが、私のような想いを持ちながら、成長して大人にならざるを得ない子どもが、確実に増えているのです。私は、現代が抱える社会の病を、何十年も前に、先行して体験させて頂いたように感じるのです。

 

あらゆる人間関係が良好に今はお蔭様で、職場では本当に信頼され、自分の居場所だなと思えます。

 

病気になる前の私は、人を寄せ付けないオーラを出していたらしいのですが、今はどんどんスタッフも近づいて来て、話し掛けてくれています。患者さんからも、とても安心感があると言われるのです。仕事の量と質だけを見たら、以前務めていた病院の方が、優れているかも知れません。

 

しかし、全体として見たら、これほどいい環境はないでしょう。それに、ここ数年は私が持っている特殊な技能をもとにした治療分野で、年間1億円の収入がクリニックにもたらされるようになりました。

 

もちろん、私ひとりで稼いでいるわけではなく、医師や、サポートしてくれるスタッフがいて成り立っているのですが、私も一目置かれているというか、任されている感じがします。

 

不思議と仕事に追われませんし、休みも取りやすい状況です。子どもたちとの関係も、以前と比べれば、信じられないくらい良くなりました。「パパは、昔は静かでしゃべらないと思っていたけど、今はニコニコしていて、大きな声で『ただいま!』って言ってくれる」と、喜んでくれています。授業参観では、子どもが大きな声で「ハイ!」と返事をしていました。すくすくと元気に育ち、本当に嬉しくて嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

母のお店は、もともと無添加のお惣菜店として繁盛していたのですが、地元の新聞社に取り上げられたりして、日々、お客さんが増えて嬉しい悲鳴を上げています。

 

そして、母が再婚した今の父と私は、本当の父子のような関係になり、今では自然に「お父さん」と呼べるようになりました。

 

後になってから、今の父から「あのままお前が〝本当の自分〟に出会わなかったら、ひとり寂しい人生を送っていたぞ」「あんな冷たい人間と、俺は会ったことがなかった」と言われましたが、それくらい、当時の私は何も見えていなかったのです。

 

しかし、真我に出会い、周りの人間関係で、自分が磨かれているということを日々意識することで、本当に結果が変わってきました。

 

毎日、本当に幸せです。今現在、真我のことを知らないがために、心の病で苦しんでいる人が大勢いると思います。そういった人たちに、「本当に心の病は治せる! 私が実例だ!」と伝えることが、自分の役割だと思っています。

 

(佐藤康行公式サイトより引用)

 

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